栗原観光情報~歴史・文化~
仙台藩花山村寒(ぬる)湯(ゆ)番所跡
孤雲屋敷
孤雲屋敷(こうんやしき)は、花山村字草木沢小田に所在した旧佐藤家住宅を移築したものです。七代目当主の重太郎は、この地で生まれ育ち、後に江戸で最大の道場を持った幕末の剣豪、千葉 周作の剣士としての天分を認めた人といわれています。
この建物は、桁行20.37メートル(10.5間)、梁間11.64メートル(6間)の木造平屋建て、片入母屋造、茅葺型銅版葺(元は茅葺)で、開口部、間仕切りに柱が1間(けん)ごとに建ち、開口部には古式の三本溝の鴨居、敷居が用いられ、内雨戸で座敷周りには濡れ縁が設けられています。
建築年代は不明ですが、その平面形状、柱間寸法、架構手法などからみて、約230年前後を経た古民家で、この地方の上層民家の特徴を伝えた大型民家の典型的遺構と考えられています。
建築年代は不明ですが、その平面形状、柱間寸法、架構手法などからみて、約230年前後を経た古民家で、この地方の上層民家の特徴を伝えた大型民家の典型的遺構と考えられています。
●種別 栗原市指定有形文化財 平成5年12月1日指定 ※指定時は、花山村
●開館時間 午前9時から午後4時
●休館日
●開館時間 午前9時から午後4時
●休館日
毎週月曜日から水曜日(祝日を除く)、12月1日から3月31日
●観覧料 ※団体は20名以上
●観覧料 ※団体は20名以上
一般210円(団体170円)、小中学生、高校生110円(団体90円)
●交通アクセス
●交通アクセス
東北自動車道築館インターチェンジから自動車で約25分
JRくりこま高原駅から自動車で約30分
●電話番号 0228-56-2656
JRくりこま高原駅から自動車で約30分
●電話番号 0228-56-2656
施設の詳細などは、狐雲屋敷のホームページより確認できます。
剣豪千葉周作ゆかりの家 狐雲屋敷 のホームページを開く(外部リンク)
剣豪千葉周作ゆかりの家 狐雲屋敷 のホームページを開く(外部リンク)
旧有壁宿本陣
旧有壁宿本陣は、元和五年(1619年)に奥州街道の宿駅として創設され、参勤交代制度が確立後は、松前・八戸・盛岡・一関の藩主や各藩重臣が通行の際に宿泊した場所として知られています。
現存する建造物は、延享元年(1744年)に改築されたもので、まず目につくのは道路に面して建つ二階建長屋とその脇にある御成門です。どちらも江戸の武士社会の息づかいを今に伝える趣深い建造物となっています。
現存する建造物は、延享元年(1744年)に改築されたもので、まず目につくのは道路に面して建つ二階建長屋とその脇にある御成門です。どちらも江戸の武士社会の息づかいを今に伝える趣深い建造物となっています。
なお、藩公や幕府及び各藩重要役人が利用した御成門は、明治9年と明治14年に明治天皇が出入りされて以来、現在まで堅く閉じられ、諸人の利用が禁じられています。また、藩主たちが利用したのが、本陣の心臓部となる「上段の間」で、その名の通り、床がほかの部屋よりも一段高くなっています。造りは、天井が高い竿縁天井で、縁に面した書院窓がつくという典型的な書院造りでありながらも厳粛な佇まいをみせてくれます。ちなみに、こうした典型的な書院造りがみられるのは東北では当本陣だけとなっています。
さらに旧有壁宿本陣の特徴としては、資料の充実が挙げられます。これは延享元年の火災以来現在まで二百年以上もの間、炎禍から免れてきた結果で、「宿駅検断文書」「本陣宿泊文書」「佐藤家内文書」などの資料が残されています。これらの資料は、江戸時代の様相や宿駅の経営を伝える重要な歴史資料として当本陣に展示されています。
この旧有壁宿本陣は、主要街道の重要な遺構として、昭和46年5月に、国の重要な史跡として指定されました。
この旧有壁宿本陣は、主要街道の重要な遺構として、昭和46年5月に、国の重要な史跡として指定されました。
●交通アクセス 東北自動車道若柳金成インターチェンジから自動車で15分
金成ハリストス正教会
金成町上町の酒井篤礼は函館で医業を営んでいたときにロシアの宣教師ニコライより洗礼を受けました。
その後、国禁を犯す者として追われ、明治2年に金成に来て正教の真理を説いた時に捕捉されました。
2年間の獄舎暮らしの後は東京でニコライに師事した後、再び金成に戻り、仮会堂を建てて布教活動を始めました。しかし、人々の迫害を受けることも多く、明治12年にはせっかくの仮会堂が破壊されてしまいます。篤礼はそれでも信仰心を失わず、明治24年には川股松太郎宅を仮祈祷所として信者を導くようになりました。その後は、古い家を買い取り、教会を建設。信者は次第に増し、大正に入ると124名を数えるようになったと伝えられています。
鐘楼の高さ7メートルを誇る現在の金成ハリストス正教会は、昭和9年に川股松太郎氏の信仰心より、自宅の敷地を提供して建てられました。
その後、国禁を犯す者として追われ、明治2年に金成に来て正教の真理を説いた時に捕捉されました。
2年間の獄舎暮らしの後は東京でニコライに師事した後、再び金成に戻り、仮会堂を建てて布教活動を始めました。しかし、人々の迫害を受けることも多く、明治12年にはせっかくの仮会堂が破壊されてしまいます。篤礼はそれでも信仰心を失わず、明治24年には川股松太郎宅を仮祈祷所として信者を導くようになりました。その後は、古い家を買い取り、教会を建設。信者は次第に増し、大正に入ると124名を数えるようになったと伝えられています。
鐘楼の高さ7メートルを誇る現在の金成ハリストス正教会は、昭和9年に川股松太郎氏の信仰心より、自宅の敷地を提供して建てられました。
●種別 栗原市指定有形文化財 平成19年6月29日指定
●場所 宮城県栗原市金成上町西浦60番地1
●アクセス 東北自動車道若柳金成ICから自動車で5分
●電話番号 0191-24-3393
●場所 宮城県栗原市金成上町西浦60番地1
●アクセス 東北自動車道若柳金成ICから自動車で5分
●電話番号 0191-24-3393
金成歴史民俗資料館
1887年(明治20)につくられた旧金成小学校(県指定文化財)の校舎を今に残し、金成の歴史と文化財資料などを展示している。正面にバルコニーをもつ和洋折衷の美しい外観を保っている。
●開館期間 4月~11月
●開館時間 午前9時~午後4時
●休館日 月曜日~水曜日(祝日を除く)
●入館料 一般210円(団体170円)、
小中学生・高校生110円(団体90円)
※団体は20名以上
●所在地 宮城県栗原市金成中町7 Map 5
●電話番号 0228-42-2155
●電話番号 0228-42-2155
●東北自動車道若柳金成ICから自動車で約5分
JRくりこま高原駅から自動車で約15分
炭焼藤太の墓
奥州平泉藤原氏隆盛の時代、金成村で炭焼きをしている藤太という貧しい男が、京都から来た姫と夫婦になり、黄金を掘り当てて長者となったという伝説があります。金成地区には、その伝説の夫婦のお墓が残されています。
夫婦は3人の子をもうけ、3兄弟は藤原秀衡に仕え奥州と京を行き来する豪商となりました。中でも、長男の橘治は源義経の東下りの案内人「金売吉次」として有名です。
夫婦は3人の子をもうけ、3兄弟は藤原秀衡に仕え奥州と京を行き来する豪商となりました。中でも、長男の橘治は源義経の東下りの案内人「金売吉次」として有名です。
●所在地 宮城県栗原市金成宇南崎
●東北自動車道 若柳金成ICから自動車で約10分
白鳥省吾記念館
白鳥省吾(しろとり せいご)記念館は、1998年(平成10年)7月1日に開館。同時に開館した築館町立図書館(現在の市立図書館)、伊藤記念館と隣接しています。
白鳥省吾の生涯を分かりやすく紹介する施設です。
白鳥省吾の生涯を分かりやすく紹介する施設です。
●開館時間 午前9時から午後4時30分
●休館日 毎週月曜日、祝日(祝日が月曜日のときはその翌日)、年末年始、特別整理期間
●交通アクセス
東北自動車道築館インターチェンジから車で10分
●休館日 毎週月曜日、祝日(祝日が月曜日のときはその翌日)、年末年始、特別整理期間
●交通アクセス
東北自動車道築館インターチェンジから車で10分
東北新幹線くりこま高原駅からバスで15分
●所在地 栗原市築館薬師三丁目3番26号
●併設施設 栗原市立図書館
●所在地 栗原市築館薬師三丁目3番26号
●併設施設 栗原市立図書館
白鳥省吾記念館の紹介
民衆詩派の詩人 白鳥省吾(しろとり せいご)
「自然」の詩、「人間愛」の詩。白鳥省吾賞
小迫の延年
小迫祭り(4月第1日曜日開催)
小迫祭りは、三迫総鎮守の社として崇拝されている白山神社の例大祭で、春の農耕期を前に豊作を願って行われてきました。
祭りでは、獅子舞(ちゃれこ舞)、献膳、御山開き・御法楽、入振舞(長刀舞)、飛作舞(胡蝶舞・青陽舞)、田楽舞が行われ、源平合戦を擬した馬乗渡しで終わります。
古来、この馬乗渡しの扇の的を手に入れた部落は豊作であるといわれ、必死に的の奪いあいが行われてきたため、一名「ケンカ祭」ともよばれています。
祭りの当日は、那須与一の扇の的射にあやかり宮城県北・岩手県南から数百人の選手が技を競う弓道大会、吟道大会が開催されるほか、地場産品まつりも同時開催され好評です。
昭和54年2月3日、重要無形民俗文化財として国の指定を受けました。祭典は、旧3月3日でしたが、現在は4月第1日曜日に開催されています。
祭りでは、獅子舞(ちゃれこ舞)、献膳、御山開き・御法楽、入振舞(長刀舞)、飛作舞(胡蝶舞・青陽舞)、田楽舞が行われ、源平合戦を擬した馬乗渡しで終わります。
古来、この馬乗渡しの扇の的を手に入れた部落は豊作であるといわれ、必死に的の奪いあいが行われてきたため、一名「ケンカ祭」ともよばれています。
祭りの当日は、那須与一の扇の的射にあやかり宮城県北・岩手県南から数百人の選手が技を競う弓道大会、吟道大会が開催されるほか、地場産品まつりも同時開催され好評です。
昭和54年2月3日、重要無形民俗文化財として国の指定を受けました。祭典は、旧3月3日でしたが、現在は4月第1日曜日に開催されています。


櫻田山神社
判官森
旧奥州街道力石

旧奥州街道力石 は、1083年から1087年の後三年の役の際、源義家の家来、鎌倉源五郎影政が二つあった大石の一つを谷底に投げ込んで、味方を力づけた話とか、松浦佐夜姫の話とかいろいろと伝説が多い石です。旧奥州街道の道路傍にあって旅人の目じるしでもあり、腰を下ろして旅の疲れを休める格好の石だったかもしれません。ここから、旧奥州街道の旅がはじまります。
●交通アクセス JR瀬峰駅から自動車で約10分
瀬峰一里塚
江戸時代の初期に仙台藩により築かれた瀬峰一里塚は、旧奥州街道の脇街道で高清水宿から佐沼宿を経由して登米宿に至った旧佐沼街道沿いにあり、道路をはさんで一対の土盛りが残っています。
一里塚は、江戸時代に全国各地の主要道に36町(約4キロメートル)ごとに築かれた目印で、明治時代以降になると道路拡幅工事などによって大多数が破壊されました。そのため、瀬峰一里塚のように2基とも揃って残っているのは数少なく大変貴重なものであるとして、平成2年に宮城県の史跡に指定されました。
塚の周囲には、松の自然林も残り、かつて「松並街道」とも呼ばれた古道の名残をとどめており、北に栗駒山、南に加護坊山が遠望できるなど景観も優れています。なお、旧佐沼街道沿いの文化財には、石製の標柱を設置し、散策ができるようにしてあります。新緑の季節に訪れてみてはいかがでしょうか。
一里塚は、江戸時代に全国各地の主要道に36町(約4キロメートル)ごとに築かれた目印で、明治時代以降になると道路拡幅工事などによって大多数が破壊されました。そのため、瀬峰一里塚のように2基とも揃って残っているのは数少なく大変貴重なものであるとして、平成2年に宮城県の史跡に指定されました。
塚の周囲には、松の自然林も残り、かつて「松並街道」とも呼ばれた古道の名残をとどめており、北に栗駒山、南に加護坊山が遠望できるなど景観も優れています。なお、旧佐沼街道沿いの文化財には、石製の標柱を設置し、散策ができるようにしてあります。新緑の季節に訪れてみてはいかがでしょうか。
瀬峰八幡神社
薬師堂(瑠璃殿)・姥杉
双林寺境内にある薬師堂は瑠璃殿とよばれ、市民からは「お薬師様」「杉薬師様」と親しまれてきました。
天平宝字4年(760年)に孝謙天皇の勅命で開創され、天台宗の伽藍(がらん)48坊を構える医王山興福寺といわれていました。その後、度重なる火災で一堂を残すだけになりましたが、天正19年(1591年)に再建されて「双林寺」と改称、宗派も曹洞宗になりました。
現在の建物は蛙股造り方八間の堂で、釘を一本も使わず、くさびでしめている寛政初年(1791から1798年)の建築とみられます。石越村(現在の宮城県登米市石越町)の大工・菅原卯八師の建造といわれています。
天平宝字4年(760年)に孝謙天皇の勅命で開創され、天台宗の伽藍(がらん)48坊を構える医王山興福寺といわれていました。その後、度重なる火災で一堂を残すだけになりましたが、天正19年(1591年)に再建されて「双林寺」と改称、宗派も曹洞宗になりました。
現在の建物は蛙股造り方八間の堂で、釘を一本も使わず、くさびでしめている寛政初年(1791から1798年)の建築とみられます。石越村(現在の宮城県登米市石越町)の大工・菅原卯八師の建造といわれています。
●種別 栗原市指定有形文化財 昭和39年8月24日指定 ※指定時は築館町指定
●所有 双林寺 電話:0228-22-5028
●交通アクセス
JR東日本くりこま高原駅から自動車で約15分
JRバス東日本築館バス駅下車徒歩約5分
東北自動車道築館インターチェンジから自動車で約5分
●所有 双林寺 電話:0228-22-5028
●交通アクセス
JR東日本くりこま高原駅から自動車で約15分
JRバス東日本築館バス駅下車徒歩約5分
東北自動車道築館インターチェンジから自動車で約5分
つきだて薬師まつりの「御礼の情景(儀式)」
双林寺の貴重な文化財
●木造薬師如来坐像(重要文化財)
薬師瑠璃殿の本尊で「薬師瑠璃光如来坐像」といいます。全体を1本のケヤキ材から丸彫りにつくり上げたもので、東北地方に現存する仏像では最古の一つといわれています。大正9年8月16日指定。
●木造増長天立像・木造持国天立像(重要文化財)
薬師如来坐像を納めた厨子の左右に立っている木造持国天立像の四天王のうちの2体。素地に彩色したケヤキ材の一木彫で、下に踏んでいる邪鬼も一緒に彫り出している。大正9年8月16日指定。
●銅造阿弥陀如来立像(宮城県指定有形文化財)
善光寺阿弥陀如来といわれる型で造られている銅像。容姿端正、温顔微笑を湛えているところに特徴がある。鎌倉時代後期の作。昭和37年6月28日指定。
●木造地蔵菩薩立像(宮城県指定有形文化財)
杉薬師双林寺では、延命地蔵尊と名付けられています。手で抱いて祭礼に練り歩いたとういうせいか光沢があり、衣の襞(ひだ)や顔などは磨滅していて、地方の身近な信仰が感じられます。昭和36年4月1日指定。
文化財収蔵庫
●開帳日 5月8日、9日
●観覧料金 大人300円、団体50人以上の大人200円、高校生100円、小学生・中学生50円
※開帳日以外の観覧について、団体の場合は相談に応じます。
●観覧料金 大人300円、団体50人以上の大人200円、高校生100円、小学生・中学生50円
※開帳日以外の観覧について、団体の場合は相談に応じます。
【問い合わせ先】
双林寺 電話:0228-22-5028
政岡の墓
糠塚遺跡
糠塚遺跡は、昭和47年秋、農地の区画整理中に発見され、宮城県教育委員会が緊急で調査しました。その結果、30軒の竪穴住居跡と多数の遺物が出土し、奈良・平安時代の大きな集落であることがわかりました。
主な出土品は、土師器・須恵器などの土器類です。そのほか、布を織るための糸をつむぐ紡錘車、土を掘り起こす鉄製の鋤先、鉄製の刃などがありました。このことから、当時住んでいた人々は土地を開発し、農業に従事していたと考えられます。また、糠塚遺跡の西方約5キロメートルに伊治城跡があることから、この城の造営や工事などに関わっていたかもしれません。
現在の竪穴住居は、昭和59年に復元しました。
主な出土品は、土師器・須恵器などの土器類です。そのほか、布を織るための糸をつむぐ紡錘車、土を掘り起こす鉄製の鋤先、鉄製の刃などがありました。このことから、当時住んでいた人々は土地を開発し、農業に従事していたと考えられます。また、糠塚遺跡の西方約5キロメートルに伊治城跡があることから、この城の造営や工事などに関わっていたかもしれません。
現在の竪穴住居は、昭和59年に復元しました。
●種別 栗原市指定史跡 昭和59年3月27日指定
※指定時は志波姫町指定
●交通アクセス JR東日本くりこま高原駅から自動車で5分
※指定時は志波姫町指定
●交通アクセス JR東日本くりこま高原駅から自動車で5分